水曜日, 12月 27, 2006

おのおの方。。

とは言うものの、私は間違っても、大石内臓助といえば長谷川一夫という年代ではありません。

忠臣蔵について少し調べています。組織論の観点において。と、聞こえは高尚?ですが実は父のアドバイスにより。

調べてみると、半藤一利氏や堺屋太一氏など、さまざまな人がこと忠臣蔵と大石内臓助のとったリーダーシップ、四十七士という単位、構成、を組織の観点から分析しています。

そう、堺屋太一氏といえば、『峠の群像』。私にとって忠臣蔵といえば、この、NHK大河ドラマで放送された峠の群像が一番なじみがあります。1年間みっちり放送されたせいか、3月に殿中松の廊下、12月に討ち入りと、史実とタイミングを同じくした放送がつぼにはまったのか。。

時は元禄14年(1701年)3月。'浅野殿、殿中でござる!ご乱心なされたか?!’と羽交い絞めにされる殿、はらはらと倒れる吉良上野介。そしてその日のうちに切腹申し付けられ。。そして正確に新暦で言うと1月30日の未明、旧赤穂藩士四十七人による、吉良邸へのあだ討ち。旧暦では12月14日の未明。で今でもこの日に泉岳寺にある四十七士のお墓へお参りするをする人が絶えない。なんせ私の友人Rさんもその一人。
日本人にとっては、特別な思い入れがあるこの忠臣蔵。人形浄瑠璃の物語化に端を発し、はて、どこが史実で、どこが作られた部分なのか?と、調べることたくさん。

あまり脱線しすぎぬよう、あくまでも’組織論’という観点において、調査進めたいと思います。
進展後日ご報告。

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